2022年06月10日
ウソと方便
こんにちは。
中学受験・高校受験・大学受験・個別指導・小論文対策なら興塾
です。
過日、6月5日(日)に四谷大塚の全国統一小学生テストが、興塾でも行われました。小学校1年生から6年生まで、日曜日にもかかわらず、たくさんの子供達が塾に集まり、テストに挑戦しました。


狭い富士市、富士宮市の枠にとらわれず、視野を全国に広げ、大きな視点から自分を考えるきっかけになることが、この統一テストの意味だと思います。テストの結果も気になるでしょうが、それは二の次、三の次です。
興塾では、子供達が試験問題を解いている間、約2時間、保護者会を実施しました。最近、保護者会に出席する保護者の数が増えてきて、今回は、教室に入りきれず、教室の外にまであふれていました。外にいる保護者の方にも話が聞こえるように、私は話しましたが、みなさん、熱心に聞いてくれたと思います。
保護者会では、今年の中学入試の状況や、面接についての話をさせてもらいました。さらに、各私立中学の特徴や、やっている内容についても話をしましたが、以前よりは、ちょっと控えめな話をしました。興塾に来てもらえれば、それぞれの保護者の方に、年3回行う個別面談の時にお話できるからです。
統一テストだけ興塾で受けて、保護者会に出席して、他では得られない情報だけもって帰る人がいるので、それでは、せっかく興塾に入って、月謝を払ってくれている保護者の方に申し訳ない、という気持ちもあります。
中学入試について以外でも、お子様のしつけ、教育のしかたについて、具体的な話もまじえて、お話をさせて頂きました。分かる人は分かったと思います。
子供達には、不安感、喪失感を与えず、親の愛情が感じられる教育が大切です。子供に欲しいものは何でも与えることが、親の愛情ではない、ということは、みなさんもお分かりになると思いますが、さて、具体的にどうすればいいのか、なかなか分からないと思います。その点について、具体的にお話をさせて頂きました。
ところで、全国統一小学生テストの後、小6の子供達に、私は、テストの結果より、テストにがんばって参加したことと、全国レベルの中で物事を考える必要が大切で、そういう機会に恵まれて良かった、ということを話しました。
そして、ふだんの生活の中で、ごまかさず、ウソをつかず、正々堂々と生きなければいけない、ウソをつくと罪悪感がうまれ、さらに、自分を正当化する理由を考え、物事をごまかすクセがつき、物事の原点が分からなくなる、という話をしました。
その時、一人の生徒から、ウソも方便ということは、どうなのか、という質問がありました。この子は、よく、質問ができました。私の話も真剣に聞いていた、という事でもあります。
私は、ウソも方便というのは、その人が相手に対して、本当に、相手の事だけを考えて、自分の利害を一切考えず、慈悲と愛の心だけでウソをついたなら、それは、相手の為になるので良いかもしれないけれど、ふつうは、ウソも方便という言葉を利用して、自分の為にウソをつく正当化の理由にすることが多いし、小6では物事を性格に判断する力もないし、自分が想っていることを、まだ客観的にみつめることはできないから、今は、ウソはつかない、と心に誓う方がいい、という話をしました。
私は、子供達の為になるようにと話をしましたが、私が言ったことが正しいのかどうか、私の責任も大きいので、私は、改めて、
高橋信次先生の御著書の「心の指針」を読み返しました。保護者の方にも大切だと思いましたので、以下、
信次先生の「心の指針」(三宝出版)の「ウソと方便」について書かれている事を原文のまま、ここに載せさせて頂きます。
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問
ウソと方便、お世辞の違いについて、説明して下さい。世間ではこの両者を適当に使いわけ、迷ってしまいます。
答
ウソは自己保存です。自分の都合から出てくるものです。方便とは、一時の手段であり、そうした方がいい、と客観的にみて判断されたときに使われます。
ウソも方便と、よくいわれますが、方便を使う場合は、相手の心を察して、相手を生かすときにして欲しいものです。自分の欲得で方便を使っていますと、方便だか、ウソだか区別がつかなくなってきます。
ヴィクトル・ユーゴーの『ああ無情』 という有名な小説があり、その中でこういうくだりがあります。主人公のジャン・バルジャンは、教会の司教の厚意を踏みにじり、教会の大事な銀の食器を盗む。ところが彼のみすぼらしい服装と食器の不釣合から憲兵にとがめられ、憲兵は司教のところへ彼を突き出します。彼は捕まると、司教からもらったものだと憲兵にいい張ったからです。司教は銀の食器とジャン・バルジャンの顔をしばらく見ていましたが、憲兵に向かって、はっきりといいました。この品はこの人にあげたものです、盗まれたものではありません、と。司教のこのひと言で自由の身になったジャン・バルジャンは、生まれてはじめて、人の愛にふれ、真人間になることを誓ったのです。それまでの彼はならず者で、このため何回となく投獄と脱獄を繰り返し、今度も出獄して腹を減らしているところを、司教に助けられ、食べ物にありついたのでした。ところが腹がいっぱいになると、その司教の目をかすめ、盗みを働いたのです。
もしここで、司教が事実をそのまま憲兵にいっていれば、ジャン・バルジャンの物語はなかったでしょう。司教の愛の一事によって、彼は生まれ変わり、その後、多くの人びとを救っていったのです。
このように、方便は、相手を生かすときに、大きな働きをします。
釈迦の説法には、方便が非常に多いのもこのためといっていいでしょう。
ですからウソと方便は、本質的にその内容が違いますし、その根本が、自己保存か、相手を生かしたものかによって分かれてくるでしょう。
次に、お世辞というのはウソに近いもので、これも自己保存からくるものでしょう。お世辞は実質以上に相手を持ち上げます。したがってこの意味からするとお世辞は相手をだまし、自分を偽るものといえるでしょう。しかし、この世はいろいろな魂の集まった集団社会です。お世辞は自己保存だからよくないとはいえ、真正直に、何でもかんでも、そのまま伝え、愛想がないとすれば、初対面の人だったら戸惑うこともあるでしょう。礼の一つとしてお世辞や愛想は対人関係をスムーズに運ぶために欠かせないものと思います。要は、限度を守って、節度を保つならば、お世辞の一つや二つあってもいいと思います。
正法は中道であり、要は自分を失わないことです。
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以上ですが、人は、表面に出ている部分より、本当に自分が何を想ったのか、という事が大切です。自己保存、自我我欲の想いが自分にあるかないか、いつもチェックしなければなりません。私は、少しでも心の広い、豊かな心の人間になりたいです。
自分のまちがいを素直に認める勇気と、それを修正し、実践する努力しかありません。正々堂々と生きましょう。
お問い合わせはお電話で
0545-62-6755

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過日、6月5日(日)に四谷大塚の全国統一小学生テストが、興塾でも行われました。小学校1年生から6年生まで、日曜日にもかかわらず、たくさんの子供達が塾に集まり、テストに挑戦しました。


狭い富士市、富士宮市の枠にとらわれず、視野を全国に広げ、大きな視点から自分を考えるきっかけになることが、この統一テストの意味だと思います。テストの結果も気になるでしょうが、それは二の次、三の次です。
興塾では、子供達が試験問題を解いている間、約2時間、保護者会を実施しました。最近、保護者会に出席する保護者の数が増えてきて、今回は、教室に入りきれず、教室の外にまであふれていました。外にいる保護者の方にも話が聞こえるように、私は話しましたが、みなさん、熱心に聞いてくれたと思います。
保護者会では、今年の中学入試の状況や、面接についての話をさせてもらいました。さらに、各私立中学の特徴や、やっている内容についても話をしましたが、以前よりは、ちょっと控えめな話をしました。興塾に来てもらえれば、それぞれの保護者の方に、年3回行う個別面談の時にお話できるからです。
統一テストだけ興塾で受けて、保護者会に出席して、他では得られない情報だけもって帰る人がいるので、それでは、せっかく興塾に入って、月謝を払ってくれている保護者の方に申し訳ない、という気持ちもあります。
中学入試について以外でも、お子様のしつけ、教育のしかたについて、具体的な話もまじえて、お話をさせて頂きました。分かる人は分かったと思います。
子供達には、不安感、喪失感を与えず、親の愛情が感じられる教育が大切です。子供に欲しいものは何でも与えることが、親の愛情ではない、ということは、みなさんもお分かりになると思いますが、さて、具体的にどうすればいいのか、なかなか分からないと思います。その点について、具体的にお話をさせて頂きました。
ところで、全国統一小学生テストの後、小6の子供達に、私は、テストの結果より、テストにがんばって参加したことと、全国レベルの中で物事を考える必要が大切で、そういう機会に恵まれて良かった、ということを話しました。
そして、ふだんの生活の中で、ごまかさず、ウソをつかず、正々堂々と生きなければいけない、ウソをつくと罪悪感がうまれ、さらに、自分を正当化する理由を考え、物事をごまかすクセがつき、物事の原点が分からなくなる、という話をしました。
その時、一人の生徒から、ウソも方便ということは、どうなのか、という質問がありました。この子は、よく、質問ができました。私の話も真剣に聞いていた、という事でもあります。
私は、ウソも方便というのは、その人が相手に対して、本当に、相手の事だけを考えて、自分の利害を一切考えず、慈悲と愛の心だけでウソをついたなら、それは、相手の為になるので良いかもしれないけれど、ふつうは、ウソも方便という言葉を利用して、自分の為にウソをつく正当化の理由にすることが多いし、小6では物事を性格に判断する力もないし、自分が想っていることを、まだ客観的にみつめることはできないから、今は、ウソはつかない、と心に誓う方がいい、という話をしました。
私は、子供達の為になるようにと話をしましたが、私が言ったことが正しいのかどうか、私の責任も大きいので、私は、改めて、
高橋信次先生の御著書の「心の指針」を読み返しました。保護者の方にも大切だと思いましたので、以下、
信次先生の「心の指針」(三宝出版)の「ウソと方便」について書かれている事を原文のまま、ここに載せさせて頂きます。
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問
ウソと方便、お世辞の違いについて、説明して下さい。世間ではこの両者を適当に使いわけ、迷ってしまいます。
答
ウソは自己保存です。自分の都合から出てくるものです。方便とは、一時の手段であり、そうした方がいい、と客観的にみて判断されたときに使われます。
ウソも方便と、よくいわれますが、方便を使う場合は、相手の心を察して、相手を生かすときにして欲しいものです。自分の欲得で方便を使っていますと、方便だか、ウソだか区別がつかなくなってきます。
ヴィクトル・ユーゴーの『ああ無情』 という有名な小説があり、その中でこういうくだりがあります。主人公のジャン・バルジャンは、教会の司教の厚意を踏みにじり、教会の大事な銀の食器を盗む。ところが彼のみすぼらしい服装と食器の不釣合から憲兵にとがめられ、憲兵は司教のところへ彼を突き出します。彼は捕まると、司教からもらったものだと憲兵にいい張ったからです。司教は銀の食器とジャン・バルジャンの顔をしばらく見ていましたが、憲兵に向かって、はっきりといいました。この品はこの人にあげたものです、盗まれたものではありません、と。司教のこのひと言で自由の身になったジャン・バルジャンは、生まれてはじめて、人の愛にふれ、真人間になることを誓ったのです。それまでの彼はならず者で、このため何回となく投獄と脱獄を繰り返し、今度も出獄して腹を減らしているところを、司教に助けられ、食べ物にありついたのでした。ところが腹がいっぱいになると、その司教の目をかすめ、盗みを働いたのです。
もしここで、司教が事実をそのまま憲兵にいっていれば、ジャン・バルジャンの物語はなかったでしょう。司教の愛の一事によって、彼は生まれ変わり、その後、多くの人びとを救っていったのです。
このように、方便は、相手を生かすときに、大きな働きをします。
釈迦の説法には、方便が非常に多いのもこのためといっていいでしょう。
ですからウソと方便は、本質的にその内容が違いますし、その根本が、自己保存か、相手を生かしたものかによって分かれてくるでしょう。
次に、お世辞というのはウソに近いもので、これも自己保存からくるものでしょう。お世辞は実質以上に相手を持ち上げます。したがってこの意味からするとお世辞は相手をだまし、自分を偽るものといえるでしょう。しかし、この世はいろいろな魂の集まった集団社会です。お世辞は自己保存だからよくないとはいえ、真正直に、何でもかんでも、そのまま伝え、愛想がないとすれば、初対面の人だったら戸惑うこともあるでしょう。礼の一つとしてお世辞や愛想は対人関係をスムーズに運ぶために欠かせないものと思います。要は、限度を守って、節度を保つならば、お世辞の一つや二つあってもいいと思います。
正法は中道であり、要は自分を失わないことです。
--------------------------------------------------
以上ですが、人は、表面に出ている部分より、本当に自分が何を想ったのか、という事が大切です。自己保存、自我我欲の想いが自分にあるかないか、いつもチェックしなければなりません。私は、少しでも心の広い、豊かな心の人間になりたいです。
自分のまちがいを素直に認める勇気と、それを修正し、実践する努力しかありません。正々堂々と生きましょう。
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